Masuk セリュオスとフィオラは
「……本当に、こっちで合っているんだろうな?」
気まずさを紛らわすように声をかけると、フィオラはぴたりと足を止め、振り返りもせずに言い放った。「文句があるなら一人で歩きなさい。私はあなたを導いているわけじゃない。ただ、私が帰る道を歩いているだけ」
その声音には「別に疑ってるわけじゃないんだ。ただ……ずいぶん、静かすぎると思ってな」
「静か? 森なんていつもこんなものよ」 フィオラは肩越しにちらりと鳥のさえずりも、虫の羽音さえも聞こえない。
森という生き物全体が息を潜めているような、不気味な沈黙が辺りを包んでいた。やがて二人は開けた道に出た。
空気が一段と重くなり、鼻を突くような焦げ臭さが漂ってきて、セリュオスは眉を「……煙の匂いがするな」
「煙……? まさかっ!」 すると、一目散にフィオラが駆け出した。 セリュオスも慌てて後を追う。「だから、早いって!」
枝が頬をかすめ、ほどなくして木立の間から視界が開け、そこに現れたのは小さな集落だった。
「集落……?」崩れ落ちた柵。
黒く地面には血の跡や、争った際についたであろう深い爪痕が残っていた。
生活の匂いは跡形もなく、代わりに漂うのは焦げた木材と鉄の錆のような臭い。 その集落は完全にもぬけの殻となっていた。「……そんな……」
フィオラの足が止まる。 弓を握る指が震え、その声もかすれていた。 彼女は何の変哲もない小道をただ見つめている。「……私が……もっと早く戻っていれば……!」
フィオラは地面に膝をつき、拳を強く握りしめた。 爪が掌に食い込んで血がセリュオスは彼女の背を見つめ、言葉を失った。
これまで見てきた態度からは想像もできないほど、フィオラは小さく、弱々しく見えた。 勇ましさの裏に隠れていた、本当の彼女の姿がそこにあった。しかし、セリュオスはまだ声を掛けられずにいた。
ただそっと歩み寄り、荒らされた家々を見渡す。 どの家も徹底的に漁られた痕跡はあるが、死体は一つとして残されていない。――つまり、集落に住んでいた者たちは余すことなく攫われてしまったということだ。
セリュオスは拳を握りしめ、深く息を吐く。 そしてゆっくりと、「皆、攫われてしまったんだろうな。……死体が一つもない。それは、まだ生きている希望があるということだ」
セリュオスの声は静かだったが、不思議と確信に満ちていた。「だから――助けに行こう。俺と一緒に」
「……あなたと? なんで?」 フィオラの眉間に「責任を感じているなら、取り戻せばいい! だが、こんなことをするのは、おそらく魔王軍だ……。お前一人の力では無理だろう」
「魔王軍だからって関係ないわ! 私が一人でみんなを助け出せばいいだけでしょう……!」 「だから、俺も手を貸すと言っているんだ!」 セリュオスの言葉は強く、フィオラに真正面からぶつけられる。 だが、フィオラは唇を固く結び、首を横に振った。「……あなたはあなたで勝手にすればいいだけ。私は私で行く。あなたの手なんか借りるつもりはないわ!」
セリュオスはそれ以上フィオラに言葉を掛けることはしなかった。 ただ
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【フィオラ視点】やがて、フィオラは大きな木の幹に手を掛けていた。
この木は幼い頃、妹分のイヴェリナやクイラと競うように登ったものだった。今は彼女一人で、枝を頼りに上へ上へと登っていく。
やがて銀色の光が彼女の髪を淡く照らす。
フィオラは立派な枝に腰を下ろし、月を仰いだ。 胸の奥に押し込めていた声が、静かに「イヴェリナ、クイラ……」
自然と思い出される二人の無邪気な笑顔。 フィオラの弓を真似て二人が楽しそうに遊んでいた姿。 二人は村の誰よりもフィオラを慕ってくれていた妹分だったのだ。「私が外に出てしまったから……私が強さを求めてばかりで村の守りを疎かにしてしまったから……だから、守れなかった……」
爪が掌に食い込み、涙が頬を伝う。 けれど同時に脳裏に「……私一人の力じゃ……二人を取り戻すことはできないって言うの?」
彼女は小さく月明かりの下、フィオラはようやく心の中でセリュオスの存在を肯定した。
見上げる満月は決して揺るがない。 その光を胸に受けながら、フィオラは深く息を吸い、瞳の涙を拭った。「待ってて……私が必ず助けるから」
枝の上で決意を固めた彼女の表情は、昼間とはまた異なる確かな力強さを帯びていた。―――――――――――――――――――――――――――――――――
夜が明け、森を抜ける小道に淡い霧が立ちこめていた。
鳥のさえずりが静かな森に響く中、セリュオスは焚き火の残り火に新しい枝をくべていた。枝の上で夜を過ごしたらしいフィオラは、やや乱れた髪を手で払って地上に降り立った。
そこでちゃんと眠れたのかは疑わしいが、その表情には決意が宿っているように見えた。「……早いんだな」
セリュオスは振り返って、目を細めた。 すると、傍まで来たフィオラは腕を組み、そっぽを向いたまま言った。「勘違いしないでよ。あなたの手を借りる気はない。……でも、偶然行き先が同じだから、魔王城までは私が案内してあげる」
セリュオスは目を瞬き、やがて口元に微笑を浮かべた。「なるほど……。じゃあ俺は、勝手に魔王軍と戦って勝手に捕まったエルフたちを助ける。ただ、お前が横にいるだけだと?」
「……まあ、そういうことね」 フィオラは冷たく言い放ちながらも、その顔はどこか吹っ切れているように見えた。 セリュオスは腰の剣を確かめ、炎の残り火を靴で踏み消す。「それなら、出発しようか。足手
フィオラは軽く弓を掲げ、朝日を背に歩き出した。
その背を追うように、セリュオスも森の道へと踏み出す。 霧が少しずつ消えていく中、二人の影は僅かに離れていながらも並んで伸びていく。まだフィオラが素直になることはない。
だが、確かに二人は同じ方向を目指して歩き始めていた。(――イヴェリナ、クイラ、そして村の仲間たちを、必ず私の手で取り戻す。そのために、今はこの勇者と肩を並べるだけ)
フィオラは心の中でそう誓い、森の奥へと足を進めていった――。高評価のレビューやいいね、コメントをいただけると、続きを書くモチベーションを維持することができそうです! できるだけ長く書き続けたい作品ですので、応援よろしくお願いいたします!
樹上の民が守ってきた祭壇の周囲では、木々の葉擦れが低く、一定のリズムで続いていた。 それは祈りにも聞こえるようでいて、警告のようでもあった。 祭壇の中央に立つアシリィは、周囲の空気に一切呑まれることなく、凛と背筋を伸ばしている。 覚悟の決まったセリュオスではあったが、次の問題はこれからどこに向かえばいいかだった。「それで、湖底に眠る翠玉の位置だけど……」 アシリィの一言で、セリュオスたちの意識は一斉に引き寄せられた。 勇者であるセリュオスはもちろん、一行がその視線をアシリィに集中させていた。 彼女が大切な情報を告げようとしている。 誰もがそう感じていた。「……実はわからない」 一瞬、すべての音が止んだように錯覚するほどの間が落ちた。 アシリィの言葉の意味を咀嚼するより先に、感情が先行する。 呆気に取られたような沈黙がしばらく続いた後、誰かが小さく溜息をついた。 アシリィに調子を狂わされるのは、これで何度目だろうか。 セリュオスは内心で苦笑しながらも、すぐに表情を引き締めた。「つまり、探すことも含めて試練だと?」 セリュオスの問いに、アシリィは一切躊躇うことなく頷く。「長がそう言っていた」 「アシリィはその長に言われて、ここに来たのか?」 「そうとも言えるし、そうではないとも言える」 曖昧すぎてわからない。 結局、どっちなんだ。 まあ、いずれにせよ、アシリィが樹上の民の長に話を聞いたうえで、セリュオスたちの前に現れたことは確かだろう。「でもよォ、何かヒントくらいねえとなァ……」 ガドルが眉を顰めながら、低く唸るように言った。「ない」 だが、アシリィはきっぱりと言い切る。 その声音に情はなく、ただ事実だけが乗せられていた。「じゃあどうするってんだ、旦那ァ? 闇雲に探すわけにもいかねえし……」 「頼みの綱が切れてるなら、アタイらはこれからどうしたらいいんだい?」 ガドルが半ば投げやりに声を上げたと思いきや、その次はレバザだった。 次々に漏れる声は、先の見通せない不安を示していた。 場所すら定かではない湖の底を手がかりなしに探せというのは、あまりに無謀としか思えなかった
戦いが終わった後、静かな夜を過ごしたセリュオスたちは、霧の民の拠点の入り口の門の下に集まっていた。 その時間は思いのほかゆったりと流れ、一行は最後の一人がそこに現れるのを今か今かと待ち続けていた。 不思議な体験の余熱はまだ残っているが、休んでばかりはいられない。 セリュオスたちはこの世界の魔王を倒さなければならないのだ。 そんなセリュオスたちの心を知ってか知らずか、周囲の空気は澄み渡っていた。 なかなか姿を見せない仲間の一人に心をかき乱され、そんなに時間は経っていないはずなのに、数時間も待たされている気分だった。 だが、一行の不安を拭う用に、一定のリズムを刻んだ足音が彼らのもとに近づいてきた。 また一緒に旅立てることを期待しながら、セリュオスたちは彼女を待ち続ける。「レバザの姐御ォ」 最初に沈黙を破ったのは、ガドルだ。 「その恰好、旦那について行くってことで……いいんだよなァ?」 レバザはガドルをチラッと見てから、僅かに口角を上げた。 「ああ、勇者に気づかせてもらったからね。でも、その前に……」 一度息を吸ってから、彼女は口を開いた。「シル=ネムの親玉である魔王ドライシュトラにも、ひと言くらい文句を言ってやらないと、気が済まないだろ?」 すると、ガドルが喉を鳴らしながら、小さく笑った。 「ハハ……本調子に戻ったみてぇで、何よりだァ」 少し後ろで聞いていたエレージアは、視線を逸らしたまま、ほんの一瞬だけ表情を曇らせる。 「……でも、無理はしないで頂戴。あなたが現実に戻って来れたのは、ほとんど奇跡みたいなものなのよ」 「それも、わかってるさね。勇者がいなかったら、今アタイはここにいない。迷惑かけた分、アンタたちの力になるつもりだよ」 レバザはあっさりと答える。「それは心強いな」 セリュオスの言葉に嘘はなかった。 エレージアも納得したように頷き、ついに一行は霧の民の拠点を出発することになった。 シエルハだけは最後まで名残惜しそうにしていたが、まだ若いのだから、今後も訪れる機会はあるだろう。 拠点を離れてから、勇者一行の足取りは自然と揃っていた。 セリュオスを筆頭に、エレージア、ガドル、シエルハ、レバザ、そしてアシリィ。
シル=ネムが幻霧によって生み出した戦場は、白だけではなく、黒、紫、深緑――様々な色で包まれていた。 それは怒りや恐怖、後悔、誇りといった、シル=ネムのものとは異なる誰かの感情から形成されているようだった。 幾重にも折り重なった感情が霧となり、戦場に渦巻いている。 その中にはきっと、レバザのものも含まれているのだろう。 霧は視界を歪ませ、距離感を狂わせる。 世界の音は反響し、足音すら信用できない。 だが、その中心には一人の揺るがぬ背中があった。「……勇者! そっちは任せたからね!」 レバザがシル=ネムと斬り結ぶ。 その背は、今まで幸福な夢に浸かっていた者とは思えないほど逞しかった。「わかってる! 俺たちが自分自身に負けるわけにはいかない!」 セリュオスたちの目の前にいるのは、確かにこれまで霧の民を導いてきた戦士長のレバザだった。 幾つもの霧が、彼女の周囲で荒れている。 対峙するシル=ネムは巨鎌を作り出し、レバザの斧槍に対応している。 セリュオスにできることは、彼女を信じて自身の幻影に勝つことだけだ。「あっしも、いいとこ見せてやんなきゃなァ!」 ガドルが豪快に笑いながら、自身の幻影を殴り飛ばす。 「ガドル!」 だが、即座にエレージアの鋭い声が飛んだ。「調子に乗るのは止めなさい! 幻に釣られたら、足元を掬われるわよ!」 「へいへい! わかってますよォ!」 注意されながらも、ガドルの陽気さは変わらない。 鋼の拳を構えながら、立ち上がった自身の幻影へと突っ込んでいく。「……偽物の割に、強くないか?」 セリュオスが感じたように、自身の幻影は単なる偽物ではなかった。 武器がぶつかり合うたび、精神に干渉してくるのだ。 体内からこちらを蝕もうとしてくる。「……っ、ちくしょう……!」 最初に止まったのは、ガドルの足だった。 その隙を狙うように、ガドルの幻影が一気に距離を詰める。「だから、調子に乗るなって言ったでしょう!」 間一髪、エレージアがガドルを守っていた。 その後、ガドルはエレージアが生み出した魔力の流れによって、その頭を叩かれていた。「姐さん! 助かったぜェ!」 エレー
夢の世界はいつも同じ光を湛えていた。 霧のない青い色が空を満たし、森は静かに呼吸している。 木々の影が揺れ、風は心地よい温度を保ったまま吹き抜けていく。 だが、そこは変化のない完成された世界。 レバザの背後には、夫のバンダと息子のジグが立っている。 いつも同じ姿で、いつも同じ笑顔で。「レバザ。ここで、一緒に暮らそう。もう戦わなくていい。君だけが苦しまなくていいんだ」 バンダが穏やかに呼びかける。 その声はレバザが戦場で心を擦り切らせていた夜、何度も支えとなった響きではあったが、セリュオスが現れてから疑問は確信に変わった。 レバザが二人から離れようとすると、その手をジグが掴む。 「お母さん、嫌だよ……。離れたくない」 その手には精一杯の力が込められており、レバザを引き止める。 今にも泣き出しそうな表情は何度も見たことがあった。 子どもらしく我儘を言ってくる時と何も違いはなかった。 レバザは無意識のうちに息を詰めていた。 抱き締めれば確かにそこにいると感じられるし、腕の中には温もりがあり、鼓動があり、命の重さもある。 幸福な世界は夢のようでありながらも、本物としか思えないほど精巧だった。 だが、レバザはもう目を逸らすことができなかった。 この世界は動くことはないし、時間が進むこともない。 別れも、成長も、後悔も存在しない。 そして、何よりも。 ここに居続けたら、自分は何者でもなくなってしまうだろう。 役目を持たず、戦わず、選ばず、責任を負わなくていい。 それがどれほど甘い罠だったのか、レバザは気づいてしまったのだ。「……ごめんよ」 なんとか絞り出したレバザの声が震える。 涙を堪えながらも、二人に語りかける。「アタイは……アンタたちと、いつまでも一緒に居たい」 その言葉にバンダの目が見開かれ、ジグの顔がぱっと明るくなった。 その瞬間、セリュオスが一歩踏み出そうとする。「レバザ……!」 だが、レバザはセリュオスを見ることなく、片手を上げて制する。 今はセリュオスの言葉が必要なわけではなかった。 自身の選択、その答えを出すための時間だったのだ。「それでも……それでもね、アタイはもう……ここには、もう戻れない」
霧のない空。 澄み切った青がどこまでも高く広がり、雲は薄く、穏やかに流れていた。 霧による重苦しさは一切なく、胸いっぱいに息を吸い込めば、肺の奥まで幸せが満ちていくような錯覚すら覚えるほどだ。 淡い光に満ちた豊かな森の中で、レバザは立っていた。 その両脇には夫のバンダと、息子のジグがいる。 二人はごく自然に彼女の傍にいて、肩に触れ、手を取り、その多幸感を確かめ合うように笑顔で溢れていた。「お母さん、見て! あっちの木に実がなってるよ!」 ジグの声は弾んでいた。 バンダは息子の元気な姿を見て、優しく微笑む。「ジグ、後で取りに行こうか。お母さんはまだ少し調子が悪いみたいだからね。レバザ、大丈夫かい? しばらくゆっくりして、落ち着いてからでいいからね」 「ああ、わかってるよ」 その温かい言葉に、レバザの胸が静かに満たされる。 家族の笑い声がそよ風に溶け、葉擦れの音と混じり合う。 ここには戦いもないし、恐怖を感じることもない。 失う不安さえ、ここには存在しなかった。 この世界でずっと過ごしていきたい。 そう思いかけた、そのときだった。 ぱちぱちと、拍手の音が森の空気を裂いた。 一度だけでなく、何度も高い音が響く。 祝福するようでいて、どこか距離を測るような奇妙な間合いに、レバザは反射的に身構えた。 警戒しているバンダがジグを後ろに下がらせ、レバザの背後に下がる。「……誰だい」 レバザは重々しい声で問いかけた。 すると、それは木々の影からゆっくりと姿を現した。 霧のような淡い色の外套を纏った何者か。 輪郭は確かにそこにあるはずなのに、焦点を当てようとすると、なぜか曖昧になってしまう。 もちろん、顔立ちも判然としない。 男とも女とも、老いているのか若いのかさえ断定できなかった。 だが、その声だけは異様なほど落ち着いているのがわかる。「――素晴らしい、光景ですねぇ」 感嘆するように、だが感情を乗せすぎることなく、その存在は言った。 レバザは斧槍を構えながら、再び誰何する。「名前も知らないやつと世間話をする気はないよ。こっちはアンタが何者かって聞いてるんだ」 レバザの視線は鋭かった。 すると、外套の
遺跡の探索を終えて、セリュオスたちは霧の民の拠点に戻ってきた。 結局、『シル=ネム』という名前以上に目ぼしい成果を得ることはできなかった。 今夜の霧は、前夜とは比べものにならないほど静かだった。 霧の民の拠点を包む白は柔らかく、音を吸い込み、自然に発生する微かな音さえ遠くへ溶かしていく。 空気は冷えているはずなのにどこか温く感じられ、まるで時間そのものが足踏みをしているかのようだった。 仲間たちにも言えない悩みを抱えつつも、レバザは今夜も確かに眠りについたはずだった。 セリュオスたちとは別々の寝床で、毛布を胸元まで引き寄せて目を閉じた。 思考の騒めきも確かに闇に沈んだ、はずだった。 だが、レバザが目を開けた瞬間、世界は切り替わっていた。 そこに霧はなく、冷えた空気も、湿った土の匂いも存在しない。 代わりに鼻腔を満たしたのは、懐かしい竈の煙の匂いだった。 レバザがゆっくりと視線を巡らせると、そこはかつてレバザたちが暮らしていた住居だった。 壁に残る、子どもがぶつかって欠けたような跡。 低くて、何度も頭を打った天井。 竈の横に積まれた薪の並び方まで記憶の中のままだった。 足元の土間は冷たく、息を吸えば、微かに混じる薬草の匂いがあった。 あまりにも現実的で、夢だと断じるには具体的すぎた。「……そんな、はずが……」 レバザの掠れた声が部屋の中に溶けた。 胸の奥で嫌な予感と、抑えることのできない期待が同時に膨らんでいく。 理性によって封じ込めようとするが、現実を否定できるわけがなかった。 そのときだった。「レバザ。急にぼうっとして、どうしたんだい?」 また聞き覚えのある声が聞こえた。 心臓が強く脈打ち、恐る恐る振り向く。 やはり、夫のバンダだった。 今回は霧でぼやけていないし、歪んでもいなかった。 少し日に焼けた肌も、髭の濃さも、記憶のままの姿でそこに立っている。 薪を抱え、少し困ったように笑みを浮かべていた。 その仕草は、生前と何一つ違わない。「……バンダ……なんで、また?」 喉がひくりと鳴った。 名前を呼ぶだけで胸の奥が痛み出す。 そうだ、きっとこれは夢に違いな
ルゥン・ヴォルフ――魔王軍の尖兵である巨狼を退けた夜から、村の空気は一変した。 村人の誰もが震えながらも、勇者の紋章を宿した青年の存在に希望を見出していた。 そして勇者として覚醒することになったセリュオス自身は、自分が魔王軍と戦うことの意味を真剣に考えるようになった。 今までのように義父母の手伝いをしているだけではいられなくなったのだ。「魔王軍の侵攻がすぐに始まるだろう。勇者は早々に旅立たねばならぬぞ」 翌朝の村会議で、村長がセリュオスに向かって告げた。 そう告げられた時、セリュオスはある悩みを抱えていた。 その時は、ただ拳を握り締め
この世界――アルスヴェリアには、とある勇者の伽噺話がある。 真っ暗な地中世界、緑溢れる樹海、呼吸すら困難な毒沼地帯。 燃え滾る火山の国、すべてが凍った景色。 金銀の輝かしい財宝、そして天空を支配する霹靂の魔王。 まさに勇者の大冒険。 それは遥か昔から伝えられてきた古いお話だ。 辺境のリオネルディアの村に住む青年のセリュオスは、その御伽話が子どもの頃から大好きだった。 勇者になった者が共に戦う仲間を集めて、人間たちを苦しめる魔王を倒すどこにでもあるような伝承。 でも、その勇者には普通と違う点が一つだけあった。 それ
朝日が酒場の窓から差し込み、破損した木の梁や割れた酒樽を黄金色に照らしている。 昨夜の乱闘の跡は生々しく、倒れた椅子や割れた食器が床に散らばり、破片だけでなく酒の匂いも残っていた。 セリュオスは膝をつき、杖のように手をついて床を押さえながら、重い息を吐いた。 「……はぁ、ひどい有様だな」 そう呟くと、隣でダルクも荒い息を整えながら同意する。「まったく、昨日のオレたちは何をやってたんだ……」 「あなたたちが大騒ぎしたせいで、私まで手伝わされてるんだからね!」 フィオラは少し離れた場所で、渋い顔をしてこちらに厳しい視線を向けている
酒場の灯りが暖かく揺れている。 石造りの壁に吊るされたランプの火が、木の長椅子や酒樽を柔らかく照らし、賑やかな笑い声や歌声が響いていた。 酔ったドワーフたちが腕を組んで歌い、卓上では豪快に肉と麦酒が飛び交っている。 その片隅に、セリュオスとフィオラは腰を下ろしていた。 二人の前に並んでいるのは焼いた獣肉の皿と、香草を利かせた野菜の煮込み。 それを前にしながらも、フィオラは落ち着かない表情を浮かべている。「……酒臭い……」 「そうか?」 「匂いだけじゃない。声も、空気からも臭ってくる。酔っぱらいの大声なんて聞いてると、頭が割れ







